満洲日記

今年88歳になる従姉妹の満洲で生まれ引き揚げて来るまでの記録です。

五木寛之 その4

犠牲になった女性達のおかげで38度線まで辿り着く事ができた人たちは

山をいくつもこえて最後の川を越える時は夜になるまで物陰に身をひそめ赤ん坊が泣くと口を押さえる。

それで窒息死して死んだ赤ん坊もいる。

12歳だった少年は途中何時妹を置いて行こうと思ったかわからない。

引き揚げ者の支援をしている内地のボランティアもあって人間の善と悪を目の当たりにする事になった。

五木寛之 その3

女性達がボロ雑巾のようになって帰って来ると「悪い病気移されているかも知れないから近寄っちゃダメよ」とこっそり子供達に言う母親がいた。

本当なら手を取ってお礼を言ってもいいのに。身代わりになった女性達はいわば特攻隊だ。壮絶なものだった。

日本に帰ったら検査を受けて性病に感染してないか妊娠してないか調べられ

その時の婦長さんの話では

麻酔なしで手術されたが誰一人泣いたり叫んだりする人はいなかったそうだ。

多くの子どもたちが処理され保健所の

桜の木の下に葬られた。

五木寛之氏 その2

彼の母親は身体が弱かったので終戦からひと月程でなくなった。

父親は敗戦のショックで呆然自失となっていた。

当時五木寛之氏は12歳 家族を支える者は自分しかいない。まだ赤ん坊だった妹を背中にくくりつけ5歳の弟を引きずってにげた。

外出禁止令が出る中トラックを買収してもらって38度線を目指した。

1度目の脱出は失敗。

2度目の脱出でガードポイントを突破する時それまで何度も止められその度に時計や万年筆などの貴重品を渡して見逃してもらった。

それが次は女を出せと言われて皆本当に困った。

子持ちはダメ 年寄りもダメ という事で結局元芸者さんなどの水商売していた女性や未亡人に皆んなの視線が集中した。

リーダー役の人物が土下座して「皆んなのためだ行ってくれ」と言って頼んだ。

女性は出て行かざるを得ない。

そうやって送り出した側の人間が生き延びて帰ってきたのだから

生きて帰って来た人間には何処か負い目があった。

 

五木寛之氏の体験 その1

終戦平壌で倉庫みたいな所に固まって生活していた。一年経っても引き揚げが始まらないのでひょっとしたらシベリアへ連れて行かれるのかと不安だった。

食糧はないし子供達は伝染病でどんどん

死んでいった。

その中でも流行歌が皆んなの力になった。

ソ連がやって来た時何とかやっていけたのは医者と技術者

それともう一つは芸人さんもやっていけた。

亡くなった三波春夫さんはシベリア抑留

された時ソ連の将校クラブから引っ張りだこだったとか。

 

藤原正彦氏

数学者で「国家の品格」と言う本でも知

られている藤原正彦氏の母は5歳の兄 2歳の本人生後1ヶ月の妹の3人を連れて

日本まで帰ってきた。

新京から脱出するときは屋根の無い無蓋車で豚みたいに詰め込まれた。

上からは雨が降って来る妹かおしめを濡らして泣くと「臭い!」と怒鳴られた。

そうやって宣川と言う所に辿り着いたが

鉄道はストップしていてそこで物乞い同様の暮らしを強いられた。

ここで死ぬくらいなら少しでも故国に近い所で死のうと38度線を突破する覚悟をする。皆決死の覚悟でケソンという町に辿り着いた。

21年8月下旬木の生えてない赤土の山をいくつも越えた。

雨が降ると滑る。今でもその時の傷痕が足に残っている。

38度線を越える時夜になるまで物陰に身を隠した。

赤ん坊泣いたらものすごく怒鳴られ

仕方なく窒息死させる者もいた。

川を渡った

それ自体記憶にないが今でも川が怖いという。

 

藤原正彦氏の体験から その1

満洲国の首都新京(春ピン)に住んでいた。S18年生まれ 当時2歳

満洲時代本土にいる人よりは恵まれた生活をしていた。がS20年8月9日「10日の午前1時半までに駅に集合せよ」と司令がでた。

それまでラジオでは「治安は維持されている…というニュースが流れラジオの言う事は国の指示と思い込んでいた。

とんでもなかった❗️

1日前の午前0時に突然国境近くのソ連兵が侵略してきたのだった。

着の身着のままできるだけの荷物を持って駅へ行く。

僅か数時間で世界が一変してしまった。

新京はまだマシでソ連国境にいた開拓団は大変で虐殺や集団自決もあった。

満洲からの引き上げの多くは葫蘆島から

船に乗って帰った。

38度線を越えて帰った人はみな長い難民生活をして生き残った。

hiroの義姉もそうだったが書いた物は無いし本人の口から詳しいことは聞けなかった。同じ様な体験をしたに違いない。

藤原正彦氏の母藤原ていさんは

流れる星は生きている」と言う体験を書かれているが父新田次郎は書いていない。生きて祖国まで帰って来た者の負目がどこかにあるのではという。

ロシア兵との別れ

終戦になって日本に戻る時は手荷物🧳など持って帰れないと知って

hiroの母は祖母の持たせてくれたまだ躾の付いたままの着物をストーブの中に

放り込んだ。

悔しい残念な思いで一杯だった。

 

ロシア兵と暮らし初めて半年たった冬

今まで紳士的だったペテロとキャピタンは家中の家具や絨毯をソリに乗せて

出て行ってしまった。🛷

 

まるで人が変わったようだった。