揺れる船で看板まで行って用を足すのは
子供にとって恐ろしい事だった
そこでこんな事の為にと母は
砂糖壺を持って来ていた。
そこで用を足す事ができて
どんなに安心したかわからない。
女性ならではの機転がいざと言う時役に立つ。
揺れる船で看板まで行って用を足すのは
子供にとって恐ろしい事だった
そこでこんな事の為にと母は
砂糖壺を持って来ていた。
そこで用を足す事ができて
どんなに安心したかわからない。
女性ならではの機転がいざと言う時役に立つ。
いよいよ日本へ帰る船に乗り込む。
水は貴重で食事は海水で炊いたお粥みたいな物だった。
近くにいた男の子がピーナツを固めた飴の板を乗る前に買って食べているのを
羨ましそうに見ていたらhiroのお母さんに「ジロジロみるものではありません!」と叱られた。
弱い者から死んでゆく
汽笛が「ボー!」と鳴ると遺体が
看板から下ろされた。
いよいよ葫蘆島から出る船に乗るため
の準備がが始まった。
着物は欲しい方にあげた。
卵を沢山茹でて知り合いに持ってもらったが最後は別れ別れになって
hiroの家族の口には入らなかった。
入院患者を連れて行くので
幸い屋根のある貨車に乗り込む事ができた。
姉は長年肺を患っていて水筒一つしか
肩にかける事ができなかった。
他の人達は持てるだけの荷物を持って
出発した。
帰る時期や船によっても違うようだが
ここでは持てる限りの荷物と現金
1000円は許されていた。
hiroの家族の事を書いていくうちに
同時代に引き揚げてきた方々の苦労を知って周辺記事が多くなってしまった。
再びhiroの帰国へ向かって書いていこう。
一緒に三ヶ月程暮らしたソ連兵がいなくなって学校もなくなり
先生の家に行って勉強していた
が食べ物には不自由していなかった。
ある青年のおばあちゃんが重い口を開いて中国で育てられた事を話してくれた。
当時中国では日本人とわかると「日本鬼子」と差別的な言葉を投げつけられた。
そのため引越しや転校を強いられた。
立派に育てられ家族をもつが
本当の親 兄弟が日本にいる事を知り
日本に帰国し再会した。
育ての親と離れ離れになるのは辛いが
彼女は日本での生活をのぞみ
この青年が孫として生まれた。
辛い思い出を内に秘めたまま
今やっと孫に事実を語った。