満洲日記

今年88歳になる従姉妹の満洲で生まれ引き揚げて来るまでの記録です。

乗船

いよいよ日本へ帰る船に乗り込む。

水は貴重で食事は海水で炊いたお粥みたいな物だった。

近くにいた男の子がピーナツを固めた飴の板を乗る前に買って食べているのを

羨ましそうに見ていたらhiroのお母さんに「ジロジロみるものではありません!」と叱られた。

 

弱い者から死んでゆく

汽笛が「ボー!」と鳴ると遺体が

看板から下ろされた。

葫蘆島へ向かう

いよいよ葫蘆島から出る船に乗るため

の準備がが始まった。

着物は欲しい方にあげた。

卵を沢山茹でて知り合いに持ってもらったが最後は別れ別れになって

hiroの家族の口には入らなかった。

入院患者を連れて行くので

幸い屋根のある貨車に乗り込む事ができた。

姉は長年肺を患っていて水筒一つしか

肩にかける事ができなかった。

他の人達は持てるだけの荷物を持って

出発した。

帰る時期や船によっても違うようだが

ここでは持てる限りの荷物と現金

1000円は許されていた。

 

ソ連兵がいなくなった後

hiroの家族の事を書いていくうちに

同時代に引き揚げてきた方々の苦労を知って周辺記事が多くなってしまった。

再びhiroの帰国へ向かって書いていこう。

一緒に三ヶ月程暮らしたソ連兵がいなくなって学校もなくなり

先生の家に行って勉強していた

が食べ物には不自由していなかった。

 

 

残留中国人孤児 その2

ある青年のおばあちゃんが重い口を開いて中国で育てられた事を話してくれた。

当時中国では日本人とわかると「日本鬼子」と差別的な言葉を投げつけられた。

そのため引越しや転校を強いられた。

立派に育てられ家族をもつが

本当の親 兄弟が日本にいる事を知り

日本に帰国し再会した。

育ての親と離れ離れになるのは辛いが

彼女は日本での生活をのぞみ

この青年が孫として生まれた。

辛い思い出を内に秘めたまま

今やっと孫に事実を語った。

中国残留孤児 その1

藤原氏や五木氏の様に幼な子と無事帰国できた人もいるが中には飢えや病気

旧ソ連兵や、中国兵から逃げる為連れて帰れなかった人も沢山いた。

そんな中 中国農民で労働力を得たい人や子供がなく育てたい人にやむ無く託して帰ってきた人がいる。

後中国残留孤児と呼ばるようになった。

里親は預かった子供を自分たちは

食べなくても大切に育ててくれ実の家族となった。

 

犠牲になった女性達

90年前岐阜や熊本から満洲へ渡った開拓団

いずれもソ連兵による「女狩り」

という性暴力と引き代えに多くの人々が帰国する事ができた。

今まで親戚からも家族の恥だからと

言うのをためらって生きて来た女性たちも高齢になってきた。

今伝えなければ世間は知らないまま

終わってしまうとポツポツと事実を語る人が現れてきた。

生きて帰れた者もいれば伝染病や性病で

命を落とす者もいた。

多くの犠牲になった若い女性の為の慰霊碑も建てられた。