満洲日記

今年88歳になる従姉妹の満洲で生まれ引き揚げて来るまでの記録です。

帯刀法違反

開原病院の日本人医師6人のうち半分は

シベリアなどに抑留されていた。

残り僅かで開業はしていた。

hiroの父はシベリアに行く事になっていたが若い独身医師が自ら自分が行くから

残って欲しいと身代わりになった。

そこで残った彼は開原の日本人を取り締まるような役(町長)を頼まれていた。

敗戦になって武装解除した筈の開原の日本人の中に武器を持った者が逮捕された。

その責任を取って彼もまた逮捕された。

何ヶ月か経った寒い冬の日

フサフサした彼の黒髪は雪が積もった様に真っ白になって帰って来た。

ストーブの火付紙

終戦後日ソ不可侵条約を破って南下して来たソ連軍はhiroの家を徴用しソ連参謀の宿舎として半年起居を共にする事になった。

そろそろそれも終わりに近づいて来た。

ある寒い日当番兵が父の蔵書から

一冊を抜き取り引き裂いてストーブの火付け紙に使おうとした。

母が見るとそれは祖父が苦労してドイツで研究した論文だった。

母は身の危険も顧みず

「それは私の父が書いた本です

燃やしてはなりません‼️」

日本語はわからない当番兵はその気丈さに押されおずおずと

母にその本を差し出した。

引き揚げの時も無事持って帰れ

今も製本され蔵書として残っている。

 

悲しい時は悲しい歌を

女優の森光子さんは戦争中歌手として

大陸のあちこちの街を慰問講演して回っていた。

リクエストで一番多かったのは「湖畔の宿」

明日は最前に出かけてゆく生命も知れない兵士が戦意高揚歌ではなく

♪ 山の寂しい湖に一人来たのも悲しい心

という湖畔の宿を聞きたがった。

淡谷のり子さんも同じような事を言われている。

将校は前向きな歌を歌えというが

リクエストで圧倒的に多かったのは

別れのブルース

♪ 窓を開ければ港がみえる…

という切ない歌を聞いて前線に出かけてゆくと言う。

ギリシャ悲劇にも「涙は魂を浄化する」

と言うカタリシス理論がある様に

悲しい時(人)には悲しい歌

が必要らしい。

 

 

女性たちのシベリア抑留

1945年日本の敗戦後旧満洲などからおよそ60万

人がシベリアに抑留された。

あまり知られていないが数百人の女性もいたらしい。

看護婦と女性電話交換手が多かった。

ソ連が侵攻した時「これで最後です。さようなら❗️」と言って自決した九人の女性電話交換手のエピソードも伝えられている。

ソ連の捕虜になるくらいならと強い覚悟だったに違いない。

女性たちが抑留されどの様な事を経験したか

生還できた人はいるのかはほとんど記述

されていない。

ラーゲリより愛をこめて

戦後77年も経つと戦争体験者も亡くなって

それを語り継ぐ子供達も高齢化してきた。

満洲があった事すら知らない。

そんな中で昨年暮れに封切りされた映画

ラーゲリより愛をこめて」を見た若者が

感激していた。

第2次世界大戦が終結した1945年シベリアの

強制収容所に送り込まれた主人公は二宮和也

その妻に北川景子と豪華メンバーだ。

零下40度と言う過酷な土地で食糧も僅かしか

与えられなく 励まし合って生きてゆく。

日本で待っている家族が唯一の心の支えとなる。実話だ。

主人公が最後病気になって遺書を残すが

没収されて持って帰る事は許されない。

そこで仲間達は分担して暗記する。

帰国後主人公の妻と子供達3人にそれを伝える。

過酷な状況の中1匹の黒い犬と出逢う。

唯一癒しとなった。

帰国の際ついて来たので船に乗り一緒に

帰国した。

戦争が終わって10年経っても帰る事ができなかった人がいた事も知らなかった。

柳澤青年その後

柳澤青年22歳はその後梅宮一家と無事日本🇯🇵の地を踏む事ができた。

後日彼は浜松でサキソフォンの会社を立ち上げた。

世界の一流のミュージシャンから愛される有名なメーカーとなった。

次郎に命を助けられた彼は自分の子供に

次郎の女の子と同じ名前を付けた。

 

次郎の息子辰夫は

父親が電話がかかって来ると夜中でも明け方でも往診に向かう姿を見て「医師は嫌だ」

と思いスカウトされ映画界に入った。

後に父親の尊い気持ちを知って後悔した。

hiroも同じ思いで医者と結婚するのは嫌だと思い後で大後悔。

梅宮家のその後

hiroと梅宮辰夫は2歳違いでお姉さんだった。

毎朝集団登園で辰夫の手を引いて幼稚園に行っていた。

その父次郎のところに今度は八路軍がやってきた。蒋介石率いる国民党との内戦に備えて

日本人医師を集めていた。

柳澤青年は「先生は命の恩人 家族は私がお守りします。」と言った。

20年12月西豊という所に行く事になっていた。

「私は必ず途中列車から飛び降り奉天に向かう

家族をそこまで連れてきてくれないか。」

と頼む。

次郎は隙を見て列車から飛び降り100キロ離れた奉天の知人宅に匿われた。

21年3月柳澤は、乳飲子を含め5人の子を率い

辰夫の手を引いて次郎の妻敏子を支え途中何度も列車を乗り継ぎ

2日掛けて奉天へいった。

そこで次郎と再会する事ができた。

それから2ヶ月後 葫蘆島から信濃丸で日本へ帰るが乗船する時全ての荷物は没収

多くの伝染病患者が出たが薬もなく

なす術がなかった。

「ボーッ」と汽笛がなると甲板から棺がおろされた。

助かる命も助ける事ができず無念だった。

次郎は私の満洲での日々は何だったのだろうかと思った。